新しい時代の暮らし創りとは何かと、仲間のいない状況において独りで立つことの意義などについてお話しします。
信州安曇野にて新しい時代の暮らし創りをする颯香が、天命と向き合うあなたへ、本音で、時にちょっと辛口に語ります。
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仲間がいないは順調です。新しい時代の暮らし創りと、魂の家族。
ラジオを始めた理由
今回は第1回目なんですけれども、このラジオを始めようと思った理由がですね、これまでたくさんの方に、物理的にも精神的にも応援されて暮らし創りをやってきたんですけれども、大半は私一人で過ごしているんですね。
特に3年近く前になるんですけれども、活動を始め、そして活動メンバーを解散して、離婚もした……そんな頃は、精神的にも孤独感がある時もありました。そんな時、各地で活動している仲間の存在に救われたし、一人で作業中に彼らの動画とか音声配信を聞かせてもらうのは、とっても励みになったのをよく覚えています。
なので、各地で活動する皆さんに何か届けられたらなという思いもあり、ラジオを始めさせていただきました。
今日のテーマ「仲間がいない、どうする?」
そして今日のテーマ。「仲間がいない」っていう相談を各地の方から時々いただいたりするんですね。なので、そんなことを感じている方に、「仲間がいない、どうする?」っていうところをお話ししたいなと思います。
まず、自己紹介的な内容も兼ねて、「新しい時代の暮らし創り」と呼んでいることって何なんだろうっていうところからお話ししたいと思います。
「新しい時代の暮らし創り」とは何か
新しい時代の暮らし創り。それは衣食住を自分たちの手で賄うこと、それはもちろんですし、コミュニティ、それから子育て、祈りとか、そういった大切な活動、そういった様々な分野にまたがる「新しい生き方の実践」だと思ってます。
現代の社会は、お金になることはまあまあ成り立っていると思うんです。回っている。だけれども、お金を払う人がいないことって、どうも放っておかれてしまった時代だなと思っていて。
で、お金になるっていうのは、この地球という大きな生命体の営みにとっては、ごく一部のことのはずなんですね。なので、その「お金にならなかったけれど大切なこと」を見直したいっていうことなんです。
安曇野での暮らしと、私のお金の循環
私は3年前に長野県のここ安曇野市に移住してきまして、日々田んぼとか、畑とか、庭の整えをしたりして暮らしています。時に皆さんにお声がけをして、手作りのお祭り、ご神事なんかをしたり、野良仕事と祈りの両方を分かち合える仲間がいること、今すごく嬉しいなと思ってます。
暮らしの一方、お金をいただく仕事としては、霊視を使ったセッションをさせてもらったりとか、それからアート作品をお渡ししたりとか。過去には作ったお米をお売りしたこともありますし、庭木を手削りして「神楽鈴」を作ったり、そのワークショップをさせてもらったりもしました。今はまだお金になり始めてはないんだけれど、野良着をミシンで作り始めたりとかもしています。
実は私、2年半前に離婚をしたんですけれども、その時にこれまでやってきたデザインの仕事、継続案件とかも含めて全部手放したんですね。これからは自分の本質をそのまま体現できるような、熱量が高いことだけに専念したいなと思って。
もし普通だったら、離婚するんだったら、そういった安定収入につながる仕事を残しておくっていう選択をしやすいかもしれないんだけれども、そうではなくて、これから本当に内側からフツフツと湧いてくるエネルギーをそのまま広げられるようなことだけやりたいと思って。
そんな選択をして、今、お金の循環……それで回るんだなっていうのを体現しつつあるところですね。
暮らしを中心に据える
これまでの時代って、お金になる仕事と、それを支える暮らしっていう関係だったかもしれないんだけど、暮らしこそ中心に据えたくて。そこから溢れたもの、余ったもの、余熱でできることを仕事にできたら、人って無理がないんじゃないかなと思ってます。
そして、こういった私が「暮らし創り」って呼んでいること。人によっては場創りだとか、村創り、国創り、いろんな呼び方をされていると思うんですけれども、それをもうやろうって決めて動き出している方が各地に増えてると思うんですね。
いろんな呼び方がありますけれども、共通することがすごくあるなと思っていて。例えば、自分や家族だけの自給自足をやってるだけでは足りなくて、それを共にする「仲間」の大切さを知っている。
それから、次世代に美しい地球を残したいと願っている。だから里山の資源を活用しながら手入れをするとか、そういったことにも関心があったりだとか。
あとは、人間だけではなくて、土地とか、ご先祖様とか、神様とか、たくさんの命……この物理次元だけではない、たくさんの存在のおかげさまを感じて生きている。
こういった共通のことを見ていくと、自分だけではなくて、周りの人、過去と未来の人たち、自然界、動植物の命、霊的な存在とか、重層的なつながりがありきだなと思うんですね。
分断された個人ではなくて、一人一人が大いなる宇宙そのものであるというあり方が反映された生き方、なんじゃないかなと思います。
内側にある「ビジョン」
それも皆さん、内側にビジョンがあったみたいなんですよ。なんか経験則でこうだったからこういうのを作らなきゃとか、誰かから聞いてそれにしようと思ったのではなくて、内側にその原風景というのかな、その映像、「こんな世界がいいよね」っていうのがあった。
体現している方だとか、同じような思いの方の発信とかに触れて、「やっぱりそうだよね」と思って動き出す方もいるっていう感じですよね。
そういった生き方、暮らし方って、現代社会の抱える課題……例えば食の安全のことだとか、環境破壊とか、精神的な生きづらさとかを、もしかすると一掃してくれるような、そんな理想郷ですよね。
そして、そんなビジョンを自覚して活動を始められていると。活動していく中で、特に初めの時とかですね、皆さん割と共通して悩まれるのが「仲間に出会えない、いない」っていうことだと思うんです。
「魂の家族」とつながる時代
新しい時代の暮らし創りにおいて、誰とどんな関係で生きるかは大事だと感じますよね。かつてはそれが周りの方……親族だったりとか、地域の人だったりとか、あとは職場の人だったりっていうのが主だったかもしれないんですけど、これからは「魂の家族」なわけですよね。
地球の次元が変わってきて、本来の自分に気づき、もう嘘をつけなくなってきた。本来共にいるべき人は、もう魂が知ってしまっている。だから魂の響き合いを大切につながっていく時代ですよね。
仲間ってどんなイメージですかね。同じビジョンを持ち、同じくらい高い熱量で活動に取り組める人、って感じたりしますかね。そういった仲間、いらっしゃいますかね。
私が「仲間」に求めていたもの
私はかつてそう思ってました。3年前に安曇野へ、「安曇野縄文ビレッジ」という村創りのビジョンを掲げて、それをA4、1枚で表現したものをSNSで発信して、たくさんの方に共感や応援をいただいたんです。
そこに「一緒に作る仲間募集」って書いてました。共感してくれた方や、一緒に活動していきたいっていう方はたくさんいらしたんですけど、なんかな……考えていた、イメージしていたような方、現れなかったんですね。
集まってきてくれた方たち、ビジョンに共感してくれたし、人によっては「まさに私がやりたいことです」とおっしゃってくれたし、で、一緒に体を動かして活動してくれた方もいて、積極的に関わって何か提案してくれるような方もいました。
でも、「なんか違うんだよな」と思って自分の深層を感じていた時、私が深くから求めているのは「腹底から大笑いし合える仲間」。そんな感覚、映像があったんです。
今の状況、なんか……私自身もそうかもしれないけれども、周りの方たち、腹底の音(本音)がまだまだ出ていなくて、その共鳴がないってことは、「仲間!」って感じがなんかしないんですよね。
「同じビジョン」より大切なこと
そう思ったのを経て、私が辿り着いた考えが、「同じビジョンを持つことより大切なことがあるな」っていうところなんです。
一人一人が自分の本質を生きていることが大切で、自分の魂のビジョンに気づいて、それを叶えていくこと。周りの方もそうであること。
ビジョンは重なることはあっても、全く同じ捉え方なわけがないんですよね。その人自身のビジョンを生きるってことが、ビジョンが全く同じってことよりも大事だなと思ったんです。
3年ぐらい活動して、今、お米作りだとか、お庭の整えだとか、畑のことだとか、祈りとか、そんな活動に皆さん関わってくださるようになってきて。実際集まってくださる方、どんな感じかなと思うと、同じではなくてもビジョンが重なる人たち、もしくは関わりの中で本来の自分に帰っていく流れの人たちだなって思うんです。
もしかすると後者、自分の本来のあり方に帰っていく流れで、周波数で集まってきてくださってるのかなっていう方が多いのかなって気もします。
私の役目は、私の活動に関わってもらいながら、ご本人が「一人で立つ」のを後押しすることなのかなって思ってますね。なので、一人で立てる人たちで、ビジョンの重なるところをご一緒できたらいいですよね。
「身近に仲間がいない」は正常なプロセス
各地の皆さんからいただくお声で、「遠方には仲間がいる、共感できる方いるんだけど、地域・身近な人でいない」っていうのも結構多いんですね。
……それ、正常なプロセスだと思います。そこからスタートするものかなと思います。
まず自分が一人で立って、一人であっても堂々と活動を続けること。その積み重ねが自信となって、発する周波数も変わってくると思います。
そんな時は、自分が心からやりたいと感じることをやり続けていたらいいんじゃないかなと思ってます。一人でもできること、ありますよね。
私、例えばお米作り、今年3年目なんですけれども、田植え・稲刈り以外は、1、2年目ほとんど一人でやってきました。で、私にとってはそれは、やりたくて仕方のないことでした。
お米作りとか、特にそうだと思うんですけど、「やりたいけどまだ始められていない人」っていうのがたくさんいるんですよね。機が熟せば必ず一緒にやりたいっていう方、集まってくると思います。
それまでは、一人で取り組んでいる価値、あると思います。
そして「一人ではこれはもうできないよね」っていうレベルのことが来たら、それはそれでチャンスだと思うんです。それを機に手伝ってもらって、関係を育んでいけたらいいですよね。
ビジョンを語り続けなくてもいい
私、3年前にビジョン公開したんですけれども、今は以前ほどビジョンを語ることがなくて。私の活動に何度も参加してくれている方も、最近になって「あ、そんなビジョンがあったんだね」って後からお伝えするようなこともあったりするんですけど。
ビジョンを叶えていく中で、自分の内なるビジョンを言葉やビジュアルで表現していくプロセスはめちゃくちゃ重要で、そこから始まります。でも、そこに留まる必要はないと思います。
これは……言い過ぎかな。いや、でもそうじゃないと思うんだけど、私が「新しい時代の暮らし」と呼んでいるビジョンは、突き詰めると「人類共通」だと思うんです。
それをはっきりと自覚している段階もあれば、それどころではない段階の、そのグラデーションがあるだけだと思うんです。まあ、まだほとんどの方が、それどころではない段階かもしれないんですけれども。
私が分かち合っていきたい活動をご一緒いただいて、その中でその人なりの形でビジョンを思い出していってもらう。そこにそっと立ち会えたら、もうそれで十分かなと思ってます。究極は一緒だから。
なので、結論をつけるとしたら、「ビジョンが同じ人を探さなくてもいい」っていうことかな。
「一人で立つ」ことの意味
最後にまとめていきたいです。一人で立つことが大切だと思うんですけど、その本質的な理由として、……これは持論です。
縄文時代って、人類が精神性がとっても高くて調和していたって聞きますよね。そうだったと思います。だけど、宇宙の源とおへそで繋がっている赤ちゃんのような意識状態だったんじゃないかなと思うんですね。
常に宇宙のインスピレーションが自分に流れ込んでくる。そして、全てとつながり感がある中で生きていた。
だけれども、世界を創造する「中心」としての存在ではまだなかったと思うんです。そこから人類はそのへその緒を断って、「個」として分断された世界を体験しながら、独り立ちを目指す道を進んだんじゃないかなって。
まあ現代、そうだと思いますけど、他人を攻撃して、自然を破壊して、自らも傷つけ、反抗期を経てきたわけですよね。
そしていよいよ成熟期に差し掛かってきたのが、今。一人一人が宇宙の源として世界を創造する時代が来たんですよね。
「新・縄文」とは
「新・縄文」っていうのは、AIをはじめとする最新テクノロジーのある縄文時代の側面もあるけれど、それだけではなくて、もうそもそも人類の意識が全く違う。胎児と、成熟した大人。それくらい違うと思うんです。
じゃあ、新しい時代の暮らし創りっていうのは、これまでの時代と何が違うかというと、「一人一人が創造主として立ち、ビジョンを叶えていく時代」と言いたいですよね。なので、一人で始めることに意味があると思います。
「仲間がいない」は順調です。
ということで、離れた場所で、共に一人で立ちましょう。
今日は以上です。また。
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